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  • 執筆者の写真玄哲

【心のはけ口はありますか?】


以前、北鎌倉の臨済宗円覚寺派瑞鹿山円覚寺にて管長・横田南嶺老師より法話と 入門の講義をしていただきました。


その時の振り返りを交えつつ。。


さて、私のそれまでの禅のイメージは


「宗教色が濃!」

「棒でビシバシ!!」

「足が痺れて立てなくなる!!!」😅


でしたが老師より「禅の本質」を聞きとても感銘を受けました。 ちなみに棒で叩くのはそもそもの禅の教えにはなくて、江戸時代に中国より伝わった「罰」の一つが流行り定着してしまったそうですよ。 お話を伺った際は叩かれませんでした😏

世界でも古くから続いている宗教は人間の深層心理を良くみているなと思います。 友人でキリスト教信徒さんがいますが、聖書からの教訓話を聞いても また、老師のお話を聞いてもそう感じました。

人間一人一人が抱える悩みというのは時代、社会構造が変わっても大体誰かが昔似たような境遇で悩んでいて、そこからどういう境地に至り乗り越えていったか伝承されているように思います。 歴史を知るということは、それだけで「もしも」に対処する術を身に付けるようなものだなと再認識しました。



さて、お話しの一つに


『その時どう動く』


という相田みつをさんの言葉の紹介がありました。 「禅は何のためにやるのか」

「いざ動く時、動かなければいけない時のためにやるのだ」

「動かない車にブレーキはいらない」


いざ動く時の為に、自分を知り、立ち止まらせる術を身につけていなければ止まれない、そのブレーキの役割が禅であると。


このご時世、何でもマニュアル化することでサービスや技術レベルを均一にすることが望まれています。 人間の機械化? 作業効率を考えると、それはそれで良いことだと思いますがその型にはまってしまうと「いざ」という時に反応ができなくなってしまいます。 皆さん、トラブルが起こった時に軽くでもパニックになったことはありますか? その時に落ち着いて対処できたら…思い返してみてどうですか?

『その時どう動く?!』

自分自身で一瞬立ち止まって考え早く動く、そのための心と身体を作る訳ですね。 禅は自分自身を見つめることに特化しています。

それが「内観」と言われるものです。 それを簡略化したのが マインドフルネス です。 マインドフルネスは「ありのままを受け入れる」瞑想 ですが、禅はそこに「止観」とうい考え方が入るそうです。


一つの事象に集中すること


呼吸 なら呼吸、歩行なら例えば足の裏の感覚、それだけを考えそこに意識を集中していく。 そして心を次第に落ち着けていく。 雑念が入ることを否定せず、余計なことを考えて意識が違うところへいってしまったら再び元のテーマ(呼吸なら呼吸)にゆっくり戻していく。

雑念があったり身体が揺れても叩かれない。笑

(棒で叩かれることで身も心も引き締まるのでそれはそれで良いのだが「棒で叩かれないようにすること」に意識が行ってしまうのが問題だとおっしゃっていました。)

さて、アメリカではカリフォルニアを中心にマインドフルネスを使って子供たちに感情コントロールを身につけさせる運動が広まっているそうです。

集中力アップだけでなく、不登校児や暴力の減少にも繋がっているようです💡

子供たち自身の自覚症状としてイライラが収まり頭の中が「スーっ」とクリアになるといったフィードバックもあるそうですよ。

東洋医学もそうですが、元々アジアにあった考え方が近年欧米で見直され社会の一翼を担っていることが増えてきた様に感じます。

何だか勿体ない気がしますね。

日本も教育に取り入れたら良いのに、と思う今日この頃です。

小さい頃からずーっとYouTube見てる子や、Switchにかぶりついてる子、、、私見ですが感情の制御が上手くできない子が多いと感じています。。 現代日本は情報過多社会です。 (ここで言う情報とは自分で意識して取り入れる文字や映像だけでなく嗅覚や聴覚といった身体に入ってくる五感刺激全部含めてです。) スマホ、PCはもちろんのこと、満員電車に乗っている皆さんの隣には恋人や家族と同じくらいのパーソナルスペースに僕のようなおっちゃんがいる訳です💣 それって動物的、本能的には最高警戒レベルの状況にも関わらず色んな感覚を強制的に遮断して耐えている訳です。

そういった色々なストレスを別の時間でコントロールして抜かなければ、身体に蓄積されて最終的には病気にもなるのです。 さて、この話を読んでみて「気持ちのはけ口、、ないなぁ」「興味を持ったけど何を入口にしたら良いか分からない」そんな風に感じた方はまずは座って 坐禅 を組んで、呼吸に意識を集中するところから始めて見てはいかがでしょうか。

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